• 文芸出版七十年

一期一湯 都内湯屋巡り「稲荷湯」(豊島区・上池袋)

池袋西口から十数分、喧騒を潜り抜け て六又陸橋を渡り、ほどなくして稲荷湯に到着。番台から両翼が見渡せる古典的な銭湯。脱衣の時にさりげなく聞いた老人どうしの会話がおもしろい。「俺は昭和十五年、山城新吾と同じや。島倉千代子は一つ下。」「そうか、じゃあ半年兄さんだ、俺は十六年-、千代ちゃんと同じや」この湯屋で知り合った同士なのか、浮世という言葉を連想させて、こういう何気ない会話が私は好きだ。チェーホフやモーパッサンなら、会話を聞いてすぐに短編小説ができてしまうのだろうが、この非才にはとても-。
珍しい弐双の富士山が拝める。背伸びして女湯を覗くと北斎風の赤富士、男湯は定番の白富士、有名な絵師二人の合作。湯船につかれば、いつもながら松の緑と湖水の青がくつろぎを与えてくれる。老人が十数人、平日の夕方に黙々と体を洗い、湯船につかり日々の垢を流してゆく。ところで驚いたのは、目立たないところに貼ってある店主直筆の格言集! まず「つもりがち十箇条」。曰く——–
「高いつもりで低いのが教養、
低いつもりで高いのが気位、
深いつもりで浅いのが知識、-以下略」
さらに身につまされたのは「ボケない五箇条」。曰く——–
「仲間がいて気持ちの若い人、
人の世話をよくし感謝のできる人
ものをよく読みよく書く人、
よく笑い感動を忘れない人、
趣味の楽しみを持ち、旅の好きな人」
この箴言は昨年生誕四百年だったフランスの貴族、ラ・ロシュフコーに負けてはいない。  (2014・睦月)